アオザイ通信
【2010年2月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

子どものこころに灯をともす  ― 恩師を偲ぶ―

一月下旬、私の小学生時代の同級生からベトナムに一つの報せが届きました。それは私の恩師・ M 先生の訃報でした。その報せを受け取った時、私は大きな驚きをおぼえ 、そして深い悲しみをおさえることが出来ませんでした。

M 先生は、私が小学5年生の時に私たちの小学校に赴任されて来た、若い男の先生でした。この時ちょうど 30 歳になられたばかりの頃でした。その前の4年生の時の担任の先生は年配の先生でしたので、今度は一転して若いM先生に代わり、この時 40 人ほどいた私たち同級生の間には、緊張と不安と期待が交錯しました。

しかし 5 年生を受け持つことになった M先生は、私たちのクラスに最初に入るやいなや、実に爽やかな、明るい笑顔と、ハキハキした話し方をされて、時に冗談も入れて自分の紹介をされました。その途端に、緊張と不安に包まれていた私たちのクラスの生徒たちは、子どもたちのこころをグッとつかんだM先生の中に惹き寄せられていったのでした。

私が今M先生のことを振り返る時に思い出すのは、いつも 笑顔を絶やさず、 元気溌剌として、若々しい情熱を たたえたその姿です。そしてそれは、 45 年経った今でも全然色あせないのです。そしてまだヤンチャな 5 年生たちに時に厳しく接する時にも、時に涙を浮かべて話してくれるM先生のその目の奥には、温かい愛情を秘めたまなざしがいつもありました。

M先生は私たち 5 年生の生徒たちの名前を呼ぶ時には、男子・女子の生徒いずれにも、いつも「○○ くん!」と名前に「くん」を付けて呼び掛けておられました。その後 M 先生と同じような教育関係の仕事に就いた私は、生徒たちにあの時ああいう呼びかけをしておられたM先生は、実は意識してそのような呼び方をしておられたのだなーと、今にして思うのです。

子どものこころというのは不思議なもので、「○○!」と名前だけを呼ばれる時と、「○○ くん!」と呼ばれるのとでは、先生に向けての顔の上げ方、視線の向け方、頭の振り返り方に違いがあるような気がします。

「○○ くん!」と自分の名前に「くん」を付けて呼ばれると、まだ小学生ながら、何か(先生は自分を一人前に扱ってくれているのだな〜。)というふうな気がするものです。そしてそのことは、小学生の子どもたちにとっても、後で嬉しい気持ちが込み上げて来るのです。

小学 5 年生を受け持った頃の若々しいM先生は、体力も精神力も盛んな時期であり、全力で私たちにぶつかって来られました。授業時において意欲のない生徒には、時に厳しい指導もありました。数人の生徒たちが、正座をさせられた場面もよくありました。

しかし授業が終わった放課後になると、自分からドッジボールのボールを握り、「みんな校庭に出なさい。今から学年対抗戦をやるぞ!」といって、授業が終わった後の緊張から私たちを解放してくれましたが、生徒たちよりも自分が一番楽しんでいるような感じでした。

また秋になると、校舎の裏の小高い山に自生しているアケビ採りにも強い興味を示し、「もうそろそろアケビが実を付ける頃だな・・。」「来週あたり熟れるころだろう。」「よし、明日放課後にみんなで山にアケビ採りに行くぞ!」と言って生徒たちを喜ばせてくれるのでした。

今から 45 年前の、私の田舎の小学生時代は中学受験など誰もしないので、学校が終われば家に帰る途中で、カバンを土手に放り投げて小川で魚を獲ったり、藪の中の野イチゴを摘んで食べたり、先生も一緒になってアケビを採りに山に入っていました。今考えると、なんとのどかな小学校生活だったのだろうかと、懐かしく思い起こしています。

そして私たちには印象的な、修学旅行の時のM先生の忘れられないエピソードがあります。その修学旅行は熊本から長崎までの二泊三日の旅程でしたが、二泊目の夜に一人の生徒が高熱を出しました。旅慣れない田舎の生徒たちは、普段の場所と違うところに行くと、よくこういうことが起こります。

その生徒は熱に浮かされて、夜中もなかなか寝付くことが出来ませんでした。そしてM先生は一夜の間、その生徒の額のタオルを一時間おきに取り替える作業を続けられ、ついにその夜は横になって眠られることはなかったのでした。その生徒は、一晩中横にいてくれている先生の気配でそれが分かりました。

その生徒は朝方少し熱が下がり、薄目を開けた時に目の前にM先生の顔がありました。そして「大丈夫かい。起きられるかい?」と、優しく問い掛けられました。その生徒が後でそのことをクラスの中で話してくれた時、私たちみんながほんとうに深く感動しました。

M先生のされたことは、「先生の行動」としては「当たり前のこと」だったのかもしれません。しかしその「当たり前のこと」をさり気なく、平然と出来たのが、まだ若いM先生でした。あの時の同級生は、M先生の訃報を今どのような気持ちで聞いていることでしょうか。

そして私は今、M先生の授業時の情熱的な光景を思い出すたびに、昨年の「ベトナムの先生の日」に、研修生たちが歌ってくれたあの [Buoi Phan( ブーイ ファン:チョークの粉 )] という歌がよみがえって来るのでした。

そしてベトナム語で歌われているこの歌は、 よく読み返してみますと、 実は小学生時代に教えてくれた自分の先生の姿を歌っているのだなーというのに、今 あらためて 気付きました。

♪ 先生が板書して  チョークの粉が 降ってくる  ♪

チョークの粉が  教壇の上に 降る
チョークの粉が  先生の髪に 降り積もる

私はこの瞬間が好き   私の先生の  髪が白くなる
チョークの粉 で  白くなる

先生の楽しい授業  将来大人になっても
どうして  忘れることが できるでしょうか

昔先生は  教えてくれた
私が  まだ幼いときに 

今はホワイトボードに水性マジックで授業をすることが多くなりましたが、当時黒板にチョークを使って書いていた先生たちの授業というのは、黒板下の床の上にはチョークの粉がうっすらとした雪のように積もり、先生の手もシャツの袖も、赤や黄色いチョークの色に染まり、そして先生の髪には、確かにこの歌のように白いチョークの粉がかかっていました。

M先生には、私たちが6年生を卒業するまでの二年間受け持って頂きましたが、卒業式が近づいたある日の授業の中で、M先生は私たちに次のような話をされました。そして不思議なことに、 45 年前にもなる遠い昔のことながら、私は今でもその言葉をはっきりと覚えています。

「君たち小学生には、まだまだ知らない未知の世界が山ほどあるんだよ。何と楽しい、嬉しい、すばらしいことじゃないか!みんなこれから将来いろんな仕事に進み、いろんな場所で活躍することでしょうが、自分がまだ知らない世界に、勇気を出して積極的に挑戦して下さいね。」と。

M先生が私たちとの別れが近づいた時に贈って頂いたこの言葉が、私のこころの奥深くに沈んでいて、もしかしたらそれが、私がこのベトナムという『未知の世界の国』へ足を踏み入れたきっかけになったのかもしれません。

M先生の訃報を受けた日にも仕事があり、バイクで出かけましたが、 外をバイクで走っている時にも、一月といえどもギラギラ と強い陽射しが 照り付けているサイゴンの青い空に、ありし日の先生の姿が浮かんで来ました。遠い青空に浮かんだその先生の面影は、私が小学生の時に見ていたままの若いころの先生の姿でした。

そしてその夜、 Saint Vinh Son 小学校を支援している A さんとたまたま会う機会がありました。彼に会った時に、そのことは一言も話さず、いつもと同じような話し方をこころ掛けていたつもりだったのですが、やはり彼から見ると、私は普段の表情とは違う、沈んだ顔をしていたのでしょうか。 A さんは、「今日は元気がない感じですね。どうかしたんですか。」と鋭く突かれました。

それで「実は今朝、恩師の訃報を受けたんですよ。」と正直に話しますと、「そうなんですか・・・」と彼もしんみりとした顔をされました。

私が「でも不思議ですねー。小学・中学・高校・大学と今までいろんな先生に習って来たんですが、習った時代が近い、大学や高校のほうの思い出がふつうは鮮烈なはずなのに、一番古い小学生時代のその恩師・M先生の印象は大変強く、そして鮮明なのです。」と、 A さんに向かって話しました。

A さんは「それは私も分かります。それは恐らく、小学生というのは人の一生のなかで感受性が一番豊かで、先生の情熱と愛情を最も感じやすい年頃だからじゃないでしょうか。特に情熱的な先生であれば、なおさらその印象は強いのでしょう。」と答えられたのでした。

そしてしばらく時間を置いた後にさらに続けて、「であるからこそ私は時に、Fさんが創った、貧しい家庭の子どもたちでも通えている Saint Vinh Son 小学校の生徒たちは、普通の公立の小学校に通っている生徒たちよりも、実はずっと幸せなのではないか・・・と思うことがあるのです。」

「 Saint Vinh Son 小学校の生徒たちとその親御さんたちは、彼らが成長した大人になった後でも、授業料無料で小学校に5年間も通わせてくれ、そしてまるで我が子のように自分に愛情を注いでくれているFさんや Oanh 先生や他の先生方の献身的なこころざしを振り返る時、その子ども時代に受けた強い愛情と恩はおそらく忘れないだろうと思います。」

Saint Vinh Son 小学校の子供たちに溢れるような愛情を注いでくれている先生たちの姿を、直接自分の目で見ている A さんの言葉に、私も恩師のあり日しの姿を思い出し、しばしの間何も言うことが出来ませんでした。さらに A さんは続けて、次のようなエピソードを話してくれました。

「そして実は先日、日本の私の故郷の TV 局が Saint Vinh Son 小学校を取材に来た時に、本当に感動したことがあったんです。日本から来た取材班の一人の方が、小学 2 年生のある生徒に『将来何になりたいですか?』と質問した時に、その子は『貧しい子どもたちに教えてあげる先生になりたいです。』と大きな声で答えてくれたんです。事前に何の打ち合わせもしていないのに、そのような言葉をわずか小学 2 年生の生徒がハキハキと答えていた時に、 Oanh 先生は思わず顔を伏せられていました。」

そしてそれを話していた時の A さんの顔が突如上のほうを向き、一瞬言葉に詰まり、彼の両目がみるみるうちに潤んできました。そしてすぐにその顔を私に見られないようにと思われたのか、さっと横のほうに向けられたのでした。

その瞬間の光景を見た私は、自分とは全然関係がない、全く知らない私の恩師の訃報にまで、ここまで感情を移入出来る A さんという人間は、(何と純粋なこころを持った人なのだろうか・・・)と、その潤んだ目をした彼の顔を見た時に、胸の奥がジーンとして来ました。

わが社・ティエラの教育部門では、新人教師の教育研修などにおいて次のような言葉を「目指すべき、理想とする教師像」として指導していました。私が日本にいた時にも、繰り返し指導されて来ました。

子どものこころに灯をともす人・・・これを『教育者』という。

【子どものこころに灯をともす。】という言葉の意味は深く、人それぞれの捉えかたがあるでしょう。子どもに夢を与え、やる気を出させ、目標を持たせることにより、子供のこころにポッと灯がともり、また何気なく発した先生の一言で、【子どものこころに灯がともる。】こともあるでしょう。

M 先生は、ベトナムのサイゴンにいる私のこころにまでも届く灯をともして頂いたのでした。そしてその灯は、今も私のこころの中にともっています。これは私だけではなく、人それぞれのこころの中にいる『恩師』というのは、そういう存在なのではないでしょうか。

75 歳で逝かれた、M先生との小学校でのお別れから 45 年という歳月が経ちましたが、、私のこころの中でのM先生は、若々しい情熱をずっと持ち続けられた、私にとって一生忘れることの出来ない、まことに素晴らしい、『教育者』なのでした。今までも、そしてこれからもずっと。

先生  さようなら・・・・

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。
info@te-campus.com ※件名を「春さんに質問!」にしてくださいね。




「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース < 歩かないベトナム人 > ■

数十年外国で生活している私のおばが先日、ベトナムに帰って来た。そしてベトナムの各地を旅行して回った後に、そのおばは(自分の観察だが・・・)と切り出して、私にこう言った。

「今のベトナム人はあまり歩かないわね。一歩外に出ればいつもバイクで溢れている。朝でも夕方でも外を歩いてる人なんて物売りの人たちくらいしかいない。どうしてベトナムの人たちはこんなにバイクに頼るのかしら。」。

このおばの意見には、確かに考えさせられることがあった。確かにベトナムでは、外国のように歩く人々が歩道に溢れている光景は珍しい。ベトナムで多くの人たちが歩いている場面と言えば、祝祭日くらいに大都市の中心部の一区画くらいでしかなく、平日に人がぞろぞろ歩いている光景はあまりなく、もしいたとしてもそれはほとんど外国人だ。

確かにわが国の歩道といえばもともと狭い上に、さらにその狭い歩道を屋台やバイクなどに占領されて、歩行者はそれを身をかわしながらよけて歩くので、まるで「障害物競走」のレースに参加しているような状況である。しかし、歩道がそんな状態だから、歩けないというのは言い訳でしかない。

率直に言うと、私たちは歩くのが「億劫であり、嫌い」なのだ。家の外に一歩出ればバイクにまたがって行くというのは、いつのまにか直しがたい習慣になってしまっているのだ。

私が今住んでいる地区は、市場からさほど遠くない。もしゆっくりと歩けば市場までは 10分くらいだ。少し急いでも6-7分で着く。それでおばがいる間は、おばと私の二人ともう一人の姉(この姉はダイエットのために好んで歩く。)の3人で、いつも歩いてその市場に行っていたのだが、歩いて来ている人たちなど私たち以外は見かけなかった。

この市場の周囲には、 5-6ヶ所のバイクの駐車場があるのだが、そのどれもが多くのバイクで満杯状態だった。これはこの日だけに限らず、毎日多くのバイクが競い合うようにして、ずらっと並んで駐車場に留めてあるのだ。さらにはバイクでここに来た人たちでも、3千ドン(15円)の駐車場代を払うのが惜しくて、多くの人で混み合っている狭い道の中なども、人の迷惑など考えずにバイクで市場の中を走り回っているのだ。

私のおばはホーチミン市に滞在中は、そこが歩いて行ける距離ならかなり遠くても絶対にタクシーやバイクを使わないで歩いて行った。外の陽射しが強い日でもそうだった。ヴン タウに遊びに行ったときなどは、そこには広くてきれいな歩道があり、さらには車両も少ないこともあって、彼女はほとんどずっと歩きっぱなしだった。

そんな彼女だから、我が家の近所の人々が、その家からたった 100mほどしか離れていない雑貨店でちょっとしたものを買うにも、家から外にバイクを出している姿を見て非常に驚いた。さらに驚いたことは、2歳の子どもをつれて、晩ご飯を食べるために毎日のようにバイクで街中を走り回っているある一組の夫婦の姿だった。

私のおばが言うには、「外国では公共の交通機関のシステムは大変発展していて便利なのだが、それでも短い距離を移動する時には、みんな歩くのを選ぶ。そして歩くことが当たり前の習慣になっているので、遠い所に移動する場合でもみんなバイクなどは使わないで、バスや電車などの公共の交通機関を利用するのが当たり前の習慣になっているのよ。」と。

(解説)

「ベトナムの人は歩くのが嫌い。」という点に関しては、日本で研修生を受け入れている担当者から面白い話を聞いたことがあります。

日本に行った研修生たちは、空港に到着してから、各自が自分の大きいボストンバッグを引いて、最初は迎えの車やバスに乗り込んで、その後はいろんな公共機関を利用して最終目的地の会社まで移動します。しかしその移動時において、彼らが必ず音を上げるのが、日本では「長く歩くことが多いこと。」です。

実際に空港に到着した後に、最初にモノレールに乗り、次に新幹線を利用したとしても、その後地下鉄や電車やバスなどに乗り換える時、日本ではかなり長い距離を歩きますね。しかし、日本人は(それが当たり前)という感じで、ふつうにサッサ・サッサと歩きますが、ベトナム人はまだ若い 20代のような研修生でもすぐ音を上げます。「足が痛い。もう疲れた!」と言って。

そして案内に付いて来た日本人は、日本人からみたらまだ大して歩いていない距離なのに、彼らが悲鳴を上げているその光景を見て、(なんでこうなの?)と首をひねるそうです。

そしてさらに、その日本に行った研修生たちが驚くのが、駅に向かう多くの人の群れが、いろんな方向からズラリと繋がりながら歩いている場面です。また湧き出るように多くの人たちが駅から排出されて、歩道上を足早に、黙々と歩いている光景にも彼らは目を見張ります。「何か大きなイベントでもあるのか・・・?」と首をひねるそうです。

これまた日本では当たり前の光景ですが、ベトナムで人が集団で同じ方向に足早に歩いている光景というのは、何か大きい行事があれば別ですが、あまり見かけません。ですからベトナムから来た人がそのような光景を見て驚くのですが、それがまた私たちには面白いですね。

この記事のタイトルは「歩かないベトナム人」となっていますが、しかしベトナムいる私も実は「【歩かないベトナム人化】した日本人」になっているなーと気付かされました。今の私の移動手段も、一日中ほとんどバイクでの移動だからです。実際ベトナムに来て以来、私自身歩くことが大いに少なくなりました。

昨年日本の百円ショップで買った万歩計を持ち込んで、このサイゴンで一日平均どれくらい歩いているのかしばらく確かめましたが、 5千歩を超えた日がなく、いつも3千歩から4千歩の間でした。普段サイゴンで私が歩くのは、教室の中で授業をしている時が一番多いはずなのですが、それでもこれくらいの歩数でした。日本に帰っている時には、朝夕は必ず犬を連れて散歩させたり、一日中野良仕事をしていますので、軽々と一万歩は超えています。

それでベトナムにいる時にも、(最低一万歩は歩かんといかんな。)とは思っても、日本にいる時と同じ同じ感覚で、(赤信号だから車やバイクは止まるだろう。歩道にはバイクは乗り上げて来ないだろう。)と予想して、このサイゴンで道路や歩道をゆっくり歩いていたりしたら、後ろから走って来たバイクや、一方通行なのに前から直進して来たバイクや、横道から飛び出して来たバイクや、歩道上をバンバン飛ばして走るバイクに跳ねられる確率が高いでしょう。また街中の排気ガスでノドも確実にやられるかもしれません。

私が住んでいる近くに、樹木などの多い公園があれば、そういう場所でのんびりと散歩することも可能ですが、残念ながら私が住んでいる近くには、そういう公園はありません。またサイゴンのように一年中暑い炎天下の陽射しの中では、日射病覚悟でも「歩くのが好き」という物好きはいないでしょう。

ですから私がこの記事を読んで、「なぜベトナム人は歩かないのか?」について考えたのは、ゆっくり歩道や道路や街中を歩けないような環境的、気候的な要因が大きいから、「歩かなくなる」。徒歩での移動が少ないから、必然的にバイクに頼る。バイクの生活に慣れると、やはりそのほうが便利であり、自然と「歩くのが嫌い」になるのだと思います。

しかしこのサイゴンでは、なぜ多くの人たちがバイクを利用するのかと言えば、その主たる要因は、市内を移動する時に、市民が気軽に利用出来るインフラ・システムがまだまだ貧弱だからともいえます。今サイゴンの市民が市内を移動する時の公共交通機関は市内バスだけです。

市内に路面電車はないし、日本の山の手線のような電車も、地下鉄もありません。ですからベトナムの人たちの移動手段は、バイクを利用することが必然的に多くなるし、それが結果として「歩かないベトナム人」ということになるのでしょう。

そして「歩かないベトナム人」の集団が、バイクにまたがって街中を群れになって走っていると、それを見た外国人旅行客は、目の前を走るバイクの群れの洪水のような光景に圧倒され、驚き、興味をそそられ、活気を感じて、そのバイクの集団の写真を撮りまくるという、ベトナム訪問の最初の強烈な印象が刻み付けられるのです。

しかし私と同じようにサイゴンに住んでいる日本人でも、まだ「【歩かないベトナム人化】した日本人」になっていない知人がいます。あの Saint Vinh Son小学校の支援者のAさんです。そして彼はこのサイゴンを「歩く」どころか、今は「走って」います。

彼は高校生の時にはマラソン部に在籍していたということですが、昨年の 9月頃から(またあの時のように走りたい!)という気が勃然と湧いて来て、日本に一時帰国していた時から、徐々に走り始めました。彼が再度走り始めたキッカケは、昨年たまたま訪問したカンボジアで知った「アンコール・ワット国際ハーフマラソン 」の存在でした。

この 「アンコール・ワット国際ハーフマラソン 」は、 1996 年から始まり、毎年 12 月に実施されています。彼はカンボジアに行ってその存在を知り、アンコール・ワット遺跡の中を走り抜けるそのコースを見て、「これだ!」と興奮しました。これに参加・出場して走り抜けるのが、彼の新たな目標になりました。

早速それから日本に帰った時でも、 5 km、 10 kmと走る距離を伸ばして行きました。しかしサイゴンの屋外では、交通事故の心配なく、気軽に走れる場所がないので、仕方なく毎月お金を払ってスポーツジムに通い、室内の器具の上で練習をしています。「先日は 20 kmを走りました。翌日筋肉が痛くて、痛くて・・・」と笑っていました。

彼は私よりも2つ年長ですが、その気力・体力の充実ぶりは大したものだと思います。このサイゴンでは一日 3 千歩から 4 千歩くらいしか歩かない私には、到底真似が出来るものではありません。さらに彼がマラソンのゴールとする目標は、あのハワイのホノルル・マラソンです。

そして年末の 「アンコール・ワット国際ハーフマラソン」の前に、 この2月中旬に西表島で開かれる「やまねこマラソン」にも参加する予定で、「自己記録 Best に挑戦して来ます!」と言って、数日前に手を振って旅立って行きました。


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